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あなたは世界で何番目に富者(リッチ)か?-世界の順位がわかる。-グローバルリッチリストで年金生活者を評価してみる [年金月16万円でラクに暮らせる]

★あなたは世界で何番目に裕福か?(グローバルリッチリスト)
★『グローバル・リッチ・リスト』120418nk

 『グローバル・リッチ・リスト』は、世界における富の分布状況を明確に教えてくれます。
 このサイトでは、年収を入力するだけで、世界中で、自分が何番目に裕福なのかが一目でわかるようになっています。
米国のフルタイム労働者平均年収:5万8千ドルは世界の富者の1%に入る
日本の40歳代平均年収577万円は1%に入る
サラリーマンの平均年収412万円で5%以内に入る
フリーターの平均年収106万円でも14%以内に入る

ちなみに年金生活者(厚生年金で230万円として)11%以内に入り、順位は6億6957万位になる。
あなたの年収を入れて世界順位を調べてみてみよう。
いかに富者か驚く。


 このサイトの作成に関わったニコラス・ルーペ氏(32歳)は次のように話します。
「世界の他の地域に住む人たちと比べて、自分たちがいかに裕福かということをしっかりと認識してもらうのが、このサイトの趣旨だ。西側諸国では、ともすると有名人や大金持ちを見上げて、くよくよと考え込んでしまうが、このサイトはごく簡単な手法で、そうした見方を一変させるものだ」

 『グローバル・リッチ・リスト』は、ロンドンの双方向メディア会社、ポーク社に所属する、ルーペ氏をはじめとする数名の社員によって作られました。

 『グローバル・リッチ・リスト』は、世界に住む約60億人を対象に、世界銀行の開発研究グループが算出した数値を用いています。
 同グループの推計によると、世界の平均年収は約5000ドルです。

☆(利用方法等)
参考URLからグローバルリッチリストに行き、年収を入力して下さい。
世界で何番目かデータがでます。

☆自分がとてもいい時代に、そしていい国に生まれたことを再認識しました。☆
参考URL:グローバルリッチリスト
http://www.globalrichlist.com/index.php

出会うこころー岡部伊都子を読んで [豊かさとは、幸福とはなにか]

「出会うこころ」を読んでー岡部伊都子
120415
はじめて岡部伊都子の本を読んだ。
出会うというと人と出会うのが普通だろうが、ここには景色に出会う、本に出会う、歴史的な人に書物などで出会う、美しい雲に出会う。いろいろな出会いを紹介している。
豊かな出会いは本当の豊かさをもたらす。
いろいろな出会いを持つには、こちらの心に余裕がないとチャンスが得られないようだ。

マザーテレサ讃歌
何日も食べていないヒンズー教の家族にコメを少し持っていくと、その家の母親は半分を隣のイスラム教の家に持って行ったそうだ。あなたの家族は10人もいて隣人にあげるほどないでしょうと言うと、母親はあの人たちもずーと食べていないのですと答えたそうです。
「プア イズ ビューティフル」
貧しくて飢えて病み「いなくていいもの」とされる存在から素晴らしい魂があふれ、喜びに恵まれるとマザーは言った。
宗教民族を越えて愛せない世界の方が貧しいのではないか。

あとがき
「しあわせとは、どういうことですか」
若くて健康なキャリアウーマンに尋ねられた。幸せのただなかにいると思われる方が「昔はお掃除や台所もみんな悟りへの道だったのですね。今は何でも楽ですが何か大切なものを見失っているような気がする」といった。
物はいっぱいあるけれど「本当のもの」を知らない寂しさが語調に見られた。
失ってはならなかった人類や生命体の宝が、宇宙自然現象からも世界各地からもどんどん消えてゆく寂しさをどう止めていけるのかが著者の喘ぎであるという。

「風の良寛」 中野孝次より「これからのセカンドライフを考える」 [豊かさとは、幸福とはなにか]

「風の良寛」 中野孝次より「これからのセカンドライフを考える」
120409

実に質素に、自然とともに、名利、地位財産も求めず、淡々と生きたすごさは、これからの時代の生き方に大いに参考になると思う。国民全体が貧乏になるからではなく、物質的豊かさから離れても十分人として豊かに生きられることを実証してくれたからだ。 若者たちが良寛的な生き方をみんなやっていたら日本経済は間違いなく破たんするだろう。若者は環境など考えながら永続可能な社会づくりに汗を流すべきだろう。経済基盤は無視はできない重要な要素だ。 特に生産活動、経済活動をしていない団塊世代などはセカンドライフに利用したらよいと思う。

 自分の命は、どこからきて、どこに行こうとしているのか。私はこの無限の疑問にとらわれ、草庵の窓の下で坐禅しながら、正しい姿勢で静かに瞑想しているが、いくら考えても、そもそもの始めもわからないのだから、終わりがわかるはずもない。始めと終わりばかりか、現在のこの自分さえわからない。思えば万物はへめぐり来たってすべて空か。自分という者もまた、空の中にしばらく存在するにすぎぬ。そんなところにどうして、是だの非だのがあろう。だから自分は、どうこういうことなく、なるがままにまかせてゆったりとした気持ちで、この束の間の人生を生きよう。(p95~98)
草の庵に 足さしのべて小山田の 山田のかはづ 聞くがたのしさ (良寛)

 こういう心の有り様を、現代人は味わうべくもあるまい。じっと蛙の声に耳を傾ける代わりに、たちまちテレビをつけ、らちもない画像にげらげら笑いする。

 じっとしている。何もしないでいる。自然の中に心を遊ばせるという良寛がしたことを、現代人はもうできなくなっているのだ。

 絶えず映像や音声の氾濫の中にあり、刺激なしにはいきられなくなっている。これでは良寛の、また昔からの古仏達の味わってきた深い心の充実など、もはや求むべくもない。

 文明が進歩すれば人間が幸福になる、というのは間違いであった。テレビなんてものができたために、人間は途方もなく浅薄になった。人生を自分一人の力で味わう力がなくなったとでもいうしかあるまい。

 だれでも、できれば自分一人の力で生きているということを味わい、深い安心を得たいと願っているのである。無為の充実。充実した単純さ くらい上等なものはないと良寛を通じて人は知る。その点でも良寛は現代人の対極にいる。(p107)
とかく人は、禅僧が悟りを得た。大悟一番したといえばそれっきりで終わりで、悟りの状態は何もしないでも生涯続くかのように思いがちだが、そんな安直なものではないのだ。むしろ、悟りをひらいたあとにこそ本格的な修行が始まる。これは、悟りというものが固定した何かでなく、修行によってのみ保たれる精神の状態であるからにほかならない。(p138)
「徒然草」に
名利に使われて 閑かなる暇なく 一生を苦しむるこそ 愚かなれ(第38段)欲がある限り、人はいくら物や金を持っても充足しないことを、われわれはあの
欲がある限り、人はいくら物や金を持っても充足しないことを、われわれはあの高度成長中の日本・日本人においてさんざんに見た。物の所有には自足するときがなく、つねに他人の所有と比較することになるから、他人が自分よりいい物をもっていればそれ以上の物をと意欲する。互いに競い合い欲の炎を燃やし続けたのがあのころの日本人であった。いい按配にバブルがはじけ、それ以後あの病は一応収まったかに見えるが、欲がある限りはいつでもまた再現するだろう。
その欲を元から断つのである。そうすれば、粗末な食い物でも空きっ腹にはうまく味わわれるし、ボロでも寒さふさぎに役立つ。とにかく欲がないから自由で、天下に自分を拘束するものはない。そこで、気の向くまま山林に入っては鹿と遊んだり、村に出かけては子供らと毬つき歌を高らかに歌う。名利を求める心がないから、何をしても自由なのだ。世間の嫌なことを聞いたら、堯帝から天下を譲ると聞いて耳が汚れたと、許曲が穎水で耳を洗ったという故事さながら、崖の下の清い水で耳を洗う。そして、嶺に鳴る松風の音を聞いて気持ちを清らかにする。(p157)

とある。たとえどれほどの富を得、どれほどの名声を得ようと、そういう外物のために捧げた生ほど愚かしいものはないのは、ちょっと考えれば誰にでもわかることだが、世の人の多くはそっちを選んでしまう。

四畳半くらいに小さな住まい

良寛50代の住まいー五合庵 
ここで子供たちと戯れ、時間を過ごした。何もない狭い庵は無限の豊かな空間なのかもしれない。
外人に言わせれば「シンプルライフ」かもしれないが、もっともっと奥が深い。日本人の文化は底知れない。

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幸せな子―アウシュビッツを一人で生き抜いた少年  を読んで(普通に生きれることの幸せを思う)  [豊かさとは、幸福とはなにか]

幸せな子―アウシュビッツを一人で生き抜いた少年  を読んで(普通に生きれることの幸せを思う) 
[著]トーマス・バーゲンソールー120404

もう10年くらい前に学会の関係でポーランドに行く機会があった。ワルシャワから数時間汽車でアウシュビッツとビルケナウへいった。そこで数百万のユダヤ人がガスで殺された場所だ。
そこでは髪の毛で織った繊維とか、人体から作った石鹸だとか展示されていた。
ベッドは藁(わら)むき出しの粗末なもので夏の暑さや冬の寒さの厳しさは容易に想像できた。地下のガス室には一人で入ったが、鳥肌が立つようにひんやりと薄気味が悪かった。人間はここまでやるのかと思われるくらいの残酷さを感じた。
紹介する本はこの環境を運で生き延びた子供の物語である。「幸せな子」とのタイトルであるが決して幸せではなっかたと思う。「ラッキーな子」がふさわしいだろう。極限の不幸体験を知ることで「ただ普通に生きれる幸せを自覚することができる意味では良い本であると思う。

■信念とけなげさに幸運が目を止めた
 1944年のアウシュビッツ収容所は食べる物さえろくになく、人々はやせ衰え、働けなくなればガス室に送られた。子どもは役に立たないからと、多くが殺された。
 その地獄を、10歳で親と引き離されたトミー少年が奇跡的に生きのびる。一体どうやって生き抜いたのか――。
 著者のトーマス・バーゲンソールは国際司法裁判所の判事。チェコ生まれの米国人だ。ホロコーストが「歴史化」していく中、その一つ一つの生や死に人間の顔があるのだということを訴えようと、体験を本にした。
 生きのびたのは、一言でいえば幸運だったからだ、と著者はいう。
 収容所でガス室送りの選別があったとき、親しくなったポーランド人の医師が、リストからトミーの名前をこっそり外しておいてくれた。
 チェコを移送される貨車で、食べ物がなくて死にそうになったとき、跨線橋(こせんきょう)から地元の人たちがパンを投げてくれ、おかげで持ちこたえた。
 しかしそうした幸運は、トミーが自分から呼び込んでいるように思える。
 親衛隊が子どもを選別しているとき、彼は前に出て「大尉殿、僕は働けます」と訴える。面食らった大尉はトミーを選別から外してしまう。
 またある時は「子どもは前に」という命令を無視して列の後ろに隠れる。大人に押されても前に出ず、そこでも選別をまぬがれる。
 自分は絶対にお父さんやお母さんに会える。彼はそう信じていた。生きることをあきらめた多くの人々の間で、彼の生きようとする信念とけなげさはひときわ光っていたのだろう。だから幸運が彼に目を止めたのだ。
 アウシュビッツからの「死の行進」の途中、選別がある。グラウンドを端から端まで走れ。走れなかったらガス室だ。大人が力つきて倒れる中、トミーは親衛隊と軍用犬の間を必死で走りぬけた。ここであきらめるつもりはなかった、と彼はいうのだ。
 先行きの見えない時代である。そんな時代にいる私たちに、10歳の子が生き方を教えてくれている。

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